間違えることがこわいのか

こんにちは、Aki’s Proofreadingの明子です。

日本人が英語を話すのが苦手と思う理由のひとつに、「間違えることがこわい」ということが挙げられます。正確にいうと「間違えること」そのものがこわいのではなく、「間違えたことで笑われたりバカにされたりすること」がこわいのではないか、とわたしは思います。なぜならわたしは実際に、その経験があるからです。

それはわたしが小学校3年か4年生頃です。当時、「Dr.スランプ」という漫画が大ヒットしていました。わたしも兄が愛読する漫画雑誌や単行本を読むのをとても楽しみにしていました。

その中の登場人物に「空豆タロウ、空豆ピースケ」という兄弟がいます。そこでわたしは初めて「空豆」という言葉を知りました。とはいえ、豆の一種であることはわかりましたが、実際には空豆を見たことがありません。

ある日、母と二人で近くの八百屋に買い物に行くと、そこに豆っぽいものが段ボール箱に山積みになっているのが目につきました。わたしはそれを見て、結構知ったかぶり風に「これ、空豆?」と母に尋ねました。すると「ちがうちがう、それは枝豆」という返答が。そこまではよかったのですが、なんとその光景を近くで見ていた見知らぬおばさまが「ふふふっ」と声に出して笑ったのです。

ガーン!!!背筋がスーッとする寒くなる感覚。

今となっては、それが光景を見て微笑ましく思ったことでの「ふふふっ」だったと理解できます。しかし当時のまだまだ世間を知らない明子は、「間違えると知らない人にも笑われるんだ!」という恐怖心が一気に植え付けられてしまったのです。

それ以降しばらくの間、わたしは人前で自分の考えを口にすることがこわくなった記憶があります。

そんなわたしが今は校正者として仕事をしていますが、校正を行っているときは、「校正をする」という脳内に切り替わっているので、誤植を発見しても「発見した」という事実以外に感情が動くことはありません。また、英語習得についても、英語はコミュニケーションの手段のひとつという認識であり、「自分の考えや物事をなんとかして相手に伝える」という脳内になっているので、間違えてもどうにかして伝えることに必死です。

そのような考え方になれたのは何より、ウェブ制作の仕事でプログラミング言語を先輩から教わった際に、「トライアンドエラー」という概念を一緒に教わったのが始まりかもしれません。エラーも目的到達の中での一つの道筋であると。

知らない土地に車で出かけるとき、地図を見ながら、時には誰かに尋ねたり、道を間違えて戻ったりして、それでもなんとか目的地にたどり着こうとします。道を間違えて恥ずかしい、こわいという意識はありません。

それと同様で、間違いとは正誤を知るための挑戦であり、道程のひとつであると受容される日本の社会だったら、もっと挑戦できたりいろいろな可能性が広がったりするのになあと思います。それをお伝えするためのエピソードを紹介しました。

当時の明子が目の前にいたなら、ムツゴロウさん並みにわしゃわしゃと撫でてあげたい。